昭和46年12月07日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ、よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、良い日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 御道の信心の、素晴らしさと言うか、もう言いようのないほどに素晴らしいというものをこの65節から感じますね、もう何にも拘りもない、差し障りもない、もう自由自在、または自由無碍、とでも申しますか、もう何と言う素晴らしい、御教えであり、御理解だろうかと思いますね。それは信心しておるから、わざわざそこに引っかかりが出来るような、あぁ例えば、説き方とか教えとかというものを随分ありますよね、信心しとらんけん何も分からん、信心しとるからね。
 わざわざ日柄方位を見たり、またはその家相を見てもろうたり、信心しておるから返って引っかからなければならない、不自由、不自由な生活をしなければならないといったような、教えすらある中にですね、いやもう私共は、ほとんどそれを、感じますね、他の宗教からは、飲んじゃいけん食べちゃいけん、こうしちゃいけんと言う様な、そのその戒律のようなものがあるのはやっぱそうなんです。
 ところがその、教祖様の頂いておられる信心、天地金乃神様からお受けになられた御教えというものは、もうその自由闊達と言うか、もう何の差し障りもないね、「日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」と仰る、もうここに至った時にですね、えぇもう本当に素晴らしいと思います。私は今日特に、ここへ座らして頂いて感じたことは、皆さんが一生懸命、お祝詞を奏上さして頂きながら御祈念をなさっておられる、っとに何とも言えん、一つのリズムと言うかね。
 有り難い、もうそのまま神様の心の中にずうっとこう入って行くのだろうと思われるほどしに素晴らしい、ものを感じさせて頂いて、さあ御理解が始まるとなると、皆さんがそれぞれ、ノートを出したり筆記道具を出したりして、いわゆる今日もまた稽古をさして頂くぞという姿勢を作られる、もう本当にそれが今日は感動でしたね、言わばひたむきに信心の稽古をさして頂いておられる姿です。
 ですから、例えば今日この65節の御教えを頂かせてもろうて、こういう言うならば天地の親神様が、もうおかげは自由自在ぞとね、何不自由な、思いをするか、何を窮屈な、生活をしなければならないかと、もう、それこそ、有るがままに、成るがままにという、おかげというのは、もうただ素晴らしいの一言に尽きるほどしのおかげの受けられる、道に私共があるのであり、そういう自由自在のおかげの受けられる、信心を頂いて、またその稽古をお互い成させて頂いておるのであります。
 皆さんがこうやって、一同に集まって、神様へ御祈念を捧げられるね、また神様の御教えをこのようにして真剣に頂こうと取り組まれるね、それは言わば今日の信心の稽古はじめであってね、只今から、さあ本気で信心の稽古をさして頂きますという、私は神様へ自分の信心姿勢を示される、ものでなからなければならんと思うです、一生懸命御祈念をする、一生懸命拝む、一生懸命御教えを拝聴するね、その姿勢がね、そのまま今日の信心の稽古をさして頂く、言うならば開幕ともなってね。
 これから本当の舞台に出らせて頂くのだというのが、一日でなからにゃいけんね、まあ夜の御祈念を一つの終幕とでも申しますならね、っと今日も結構な信心の稽古をさせて頂いて有り難かったということ、そして振り返ってみて、そこがちょっと不手際であったなぁ、あそこが不熱心であったなぁと、あそこは間違っておったなと、言うなら今日一日の信心の、稽古の状態をです。
 振り返ってみて、お詫びをさして貰わなければ、またお礼を申さしてもらわなければ、と言う事になるのが、私は一日を締めくくった時、言うならば終幕だという風に思います、さあ今晩は休ませて頂いてまた明日はまた信心の稽古を、というそういう日々でなからなければならん。神様が私共に与えようとしておられる所のおかげ、それはもう限りのないものね、天が私共に与えて止まないもの、それはもう限りのないもの、その限りのないおかげをです、限りなく頂いていくのが、地の心私共が言うならね。
 大地の心を心としてね、限りなく与えられる所の神様のお恵みを頂き、どれほど頂き止めるかと、どれだけ頂けるかと、言う所に楽しみを持っての、言わば信心の稽古でなからなければならん、どこに差し障りもない、どこに引っ掛かることもないね、自由自在にそれが頂けれるおかげ、私はこの65節はね、そういうおかげの受けられる、私共はそういう世界に住まわせて頂いておる、それを人間の浅い考えとか、又は人間のはしたない知恵でです、ああでもないこうでもないと言うて、世間を狭うしたりね。
 おかげよう頂かんでおる人間氏子に対する、言うならば警鏡乱打の御教えだと思う、ここに気付かしてもらわないかここを分かれ、それを例えば信心をしておってでもね、幸せになりたいと思うて拝んでもおる信心もしておっても、わざわざ窮屈な中へ自分から入っていこうとするような、いわゆる過去でもね現在でも、そういう信心をしておる者またはそういう何も分からんなりに、ただ難儀の中に一生を終わっていく者ね。
 そういう人間氏子に対するところの神様の、願いと言うか思いというものを、こういう自由自在な、おかげの頂けれる世の中だぞ、苦しむ、そんな苦しみは、必要ではないぞと、言うて下さってある、である御教え、言うならば、もう日々が天赦日であるというのである、ね、天赦日というのは神様に許された日と言う事である、健康も許されるね、心の状態の上にも許される、経済の上にも不自由しないおかげの頂けれる、言わば許される、それに例えば不健康であると言う事は、健康が許されてない証拠。
 心の状態がイライラしたり、情けなかったり、腹が立ったりするというのは、心の状態がね、許されていない証拠、このように有り難いお恵みがいっぱい、溢れるほどに、あるお恵みの中にあって、ね、腹が立ったりイライラもやもやしたりしなければならないというのは、許されてない証拠、ね、自分の心の狭さ、自分で窮屈の中に入っておるだけのこと、ね、経済の上でも同じこと、不自由せんですむ、おかげの頂けれる道に例えばおりながら、不自由をしておる。
 それは許されていないから、金をもらせて頂くとか、金を使わせて頂くことを許されていない証拠ね、だから何故許されていないのかと、何故許されんのかと、どうぞ健康の上にも経済の上にも、人間関係、自分の心の上にもね、許されたおかげを頂くね、それに私共が日柄方位を言うておるようなことはないか、良い家相だと言うて、家相をを見ておるようなことはないかと言う事はです。
 日柄とか家相とかと言う事ではないね、自分で決めておる、自分の浅い力で、いわゆる憶測をして、その憶測の中に自分が住んでおるから窮屈なんだ、言うなら、日柄方位が間違っておるように、家を建てるに家相を見ると言った様な事は実にくだらない迷信であると同時に間違っておると言う事をです、ようにその、私共が間違った考え方をしておるからなんだ、間違ったものの見方をしておるからなんだ、そこで思いの上にも間違った、あぁ行ないの上にもです。
 それを正して行かなければならないと言う事が、正さなければです、その自由自在のおかげの受けられる、そのことが見えない、見えないだけではない、受けられないね、全てに天赦、いわゆる神様に許されての日々、そのためにです、私共がね、神様がそのようにして、もう限りなく与えに与えて下さろうとする恵みに恵んで下さろうとするその、お恵みを与えて下さろうとするそのものをです、私共が頂く稽古ね、それが大地の心なんです、ね、だから信心の稽古をさしてもらうと。
 私の控えに、三代様のお写真の下に、三代様がお書き下げ下さっておる、色紙に「信心のけいこ」と、「けいこ」とひらがなで書いておられるその色紙が、もうこれは朝あそこで金光様にお礼を申さしてもらいます時に、えぇ「はぁ今日も信心の稽古をさして頂きます」という思いが非常にこう心の中に募ってくるね、そんならその信心の稽古っちゃならどげんしたら良かですかと、言う人もありましょう、稽古のしようがないね、これは例えば、えぇ勉強でもあんまり出来ない人は、勉強の仕方を知らんね。
 ようにです、信心しとっても、「信心の稽古っちゃどげなこってすか」と、ただその参ることも拝むことも稽古の一つでしょうけれども、参る拝むことだけじゃないぞと、1日を信心の稽古として、取り組ませて頂くと、いう心の状態こそが大地の心なんですね、これはもう一切そうなんです、苦しい事につげ楽しい事につけ、楽な事につけね、その事を通して信心の稽古さしてもらう、だから苦しい事悲しい事だってね。
 それが信心の稽古と頂き、頂けれる時に、神様このようにして信心の稽古をさして頂くと言うて、苦しいけれども有り難いのである、楽であれば楽であるほど、楽しければ楽しいてです、その事を通して信心の稽古をさして頂くのであるから、調子に乗り過ぎたり、調子をとり外したりすることがないね、ピシッとこう受け止めていくね、だからもう私共四六時中が、言うなら信心の稽古なんだ、そういう頂き方がです、そうだと思い込ませて頂き、そうだとそれに撤して行くところのおかげを頂くならばです。
 もう日々がなるほど天赦日じゃなと、実感することが出来るようなおかげが受けられると思う。私は今朝、お夢を頂いた、なかなか広いお家に住まわせて頂いておるけどもそれがもう、もう柱なんかでもこんな小さい柱が立っておる、こうこうするとぶらぶらしよる柱じゃった、それも電気のスイッチがこっちにもついたりこっちもついとる、実に便利のよう出けておる、お風呂に入ろうと思ったらお風呂に入らせて頂こうと思うた時に、昔のお付き合いの、まあ知った人が、あぁ尋ねてきたから。
 「まあいっしょへお風呂入りましょう」っち、そしてお風呂に入ったら、もうその人と一緒にお風呂へ入ったらもう、そらもうギッチリ小さいお風呂なんだね、例えば私がおかげを頂いてもう自由自在便利なおかげを頂いておると言うても、極楽だとね、お風呂と言や極楽ということでしょう、日々極楽のおかげを頂いておると言うても、まあ自分一人ならいざ、まあまあじゃけれども、自分の知った人と言う事は、自分が関わり合いのある人と言う事でしょうね。
 んなら皆さんもそうでしょう、関わり合いの、私と関わり合いのある人なんだ、ならなら皆さんにもさあ極楽の、味合いを味合わせようと思うても、それこそやっとかっとということである、ならそういうお夢を、もう長々と色々頂きましたが、ははぁこれは私が本当に勿体無い、このようなおかげを頂いてと言うてね、まあ私がおかげの頂き頭のように思うておるその、実際の姿であろう、神様の目からご覧になったら、このこの程度のおかげだということであろう、おかげを受けておると思うておる私がです。
 まだまだ神様が下さろうとしておる本当のおかげというのはですね、もっともっと例えば極楽と言うてもですね、お風呂と言うても、それこそ千人風呂と言われるような大きなお風呂、中に皆がこの中ではぁ極楽を感じさせてもらえるようなおかげを頂けれる、おかげを頂く時にまだまだ、例えば今日65節のところのです、いわゆる自由自在自由無碍なおかげを頂かして頂くために、いよいよ本気で信心の稽古をしなければならないなと私は思うとります、私は今日のお夢のヒントからです。
 この今日65節を頂いたけれどもね、日柄とか方位とか、家を建てるのに家相を見るとかといったような、例えを持ってお話になって、御理解下さってあるわけでございますけれどもね、天の日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思えということはですね、いわゆるいつもが良い日だと、いつもが天赦日だと、それは天赦日というのは、人間の幸福を許されるということなんだ、お金にも不自由しとりません、物にも不自由しとりません、健康もおかげを頂いております。
 心の状態はなおさらのこと、いつも自由自在に有り難い有り難いと心が使えるように、許されるおかげを頂かして頂くと言う事なんだね、それを私共が自分で自分の心でです、腹の立ったり、先が不安であったり心配であったりような心にばっかり使っておる、いわゆる許されていないからだとね、ですから本気で神様に許されると言う事になったらですね、それこそ神様が降るように下さってあるおかげを頂き止めると言う事になったらです、それは大変なことだと、その大変なおかげはです。
 私共が頂かせて頂こうと、精進さして頂く、いわゆるこの様にして信心の稽古をさして頂いておるのであるね、朝の御祈念に、にでもお参りをするというなら、いわゆるそういう信心の、例えば稽古始めが朝の御祈念であるね、ここから皆さんの御祈念の姿を拝まして頂いておると、本当に信心の稽古をしておられるなぁと思うね、一分一厘間違いのない一つのリズムに乗ってあの大祓いを奏上しておられるね。
 本当にお広間いっぱいに、皆さんの大祓いの音情が、有り難いものに聞こえてくる、御祈念が終わる、御教話を拝聴する、さあノートを出す、筆記道具を出さして頂いて、本気でその稽古をさしてもらおうとする姿勢をこのようにして示しておられるね、私が今日皆さんがはぁ素晴らしい信心の稽古を皆さんがなさっておられるなぁと、思うたのはです、神様がですね、このようにして信心の稽古をしようとしておる皆の姿勢に、ある意味での感動であったように思う。
 私が今日感じたのは稽古と言う事について、ですからこの稽古がですね、今日一日の言わば、この御祈念が朝の御祈念が、開幕であるならばです、これからいよいよ舞台に出らせて頂いての稽古にならなければならない、その全てが稽古の対象にならないものはない、苦しい事も楽しい事も、楽な事もね、その事を通して信心の稽古をさせて頂く、そしてそこをですね、生身の人間のことでございますから、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりませんが、一日を締めくくって、神様にお礼を申さして頂く時にです。
 今日一日の信心の稽古のことを思わせて頂いて、改まった上にも改まって明日はもっとましな信心の稽古をさして頂くぞという意欲に燃えて、休まして頂くそれが一日の終幕である、ね、はぁあそこんところはあんなに心配することやらじゃった、あそこんとこはあげないらん事言うこといらじゃった、あそこで腹を立てるなんて本当に相すまんことであったと、例えば一日のことをですね、あそこはどうも調子に乗りすぎとったなと、いう風にです、私共が日々をですね。
 信心の稽古をさしてもろうて、それを例えば、夜にもういっぺん復習でもさしてもらうような気持ちでね、そしてそこに、心からなる御礼であり、お詫びでありて、一日が終幕の(?)その稽古の対象、その稽古の言わば、土台になるものは大地の心であるね、大地の心を持って信心の稽古をする、これが信心の稽古のもう第一の姿勢であるね、その大地の心を持って今日一日本気で信心の稽古をさして頂こうと、取り組ましてもらう、意欲さしてもらう、それが言わば私朝の御祈念に、その意欲をいよいよね。
 本当なものにさして頂かなければならんと思うのです、そこから段々、いわゆる日々がなるほど天赦日だなぁと、いうことが分からして頂く体験が生まれてくる。私共も随分おかげっ、本当におかげを頂いておると思う、信心も出来んのにおかげを頂いておると思うておるけれどもです、まぁだまぁだ神様が下さろうとするおかげはこんなもんじゃない、それにはいよいよ私自身がもっともっと大地の心を心としての信心、または稽古の姿勢というものをもっともっと。
 厳密なものにして行かなければならないと言う事を思います。どうぞ一つ本気で信心の稽古をさして頂こうと、その根本になるものは大地の心、そして与えて与えて止まない、お恵みの、いわゆる、限りのない言うならば自由自在に、そのおかげの頂けれる、信心をお互い目指さしてもらわなければなりませんね、そういうおかげの頂けれる信心、この65節はそういう意味で頂いたらもう本当に無類のみ教えですね、どういう例えば宗教でも、持たない、言わば金光大神、得意のものね。
 独特のもの、いや得意とか独特とかと言うと、ちょっとまた言葉がいけませんから、それが実を言うたら本当なのだということ、そういう頂き方が、天地の中に住まわして頂いておる、天地のご恩恵を、言わば受けておる者としての当たり前の考え方なんです、それが本当の頂き方なのだ、それを人間の才覚やら、知恵、浅い信心でですね、憶測してそれを狭いものにしたり、はぁ酒は飲んじゃいけん、生臭気は食べちゃいかん、例えて言うならばね、こちらには金神さんのござるから。
 家を建てちゃいけんとか、今日は日柄が悪いから良いからと言うてですね、わざわざなら御祝儀の日取りをね、苦労したりすると言った様な、いわゆる考え方なんです、そういう考え方は、を人間が作り、人間がそういう窮屈なものの中に入っていこうとしておる、そういうものを打破された、金光大神はそして言わば、その打破されただけじゃない、自由自在なその天赦日であるというような、もう全てにゆるっ、神様から許されておると、健康にも経済にも心の状態の上にもね。
 許されれる道を金光大神は説かれたと、だからそこを頂かずしてです、金光様の信心を頂いておると言う事にはならない、そこんところが信心の稽古の対象にならなければならない、与えて止まないもの、また受けて受けて受けぬいて止まない心を私共が頂かなきゃならんね、それを信心の、言わば、今日も本気で信心の稽古をさして頂きますというところからです、もうどんな例えば、問題でもですね。
 もう問題が問題じゃなくなってくるんです、信心の稽古の対象なのですからね、けれども叩かれればやっぱり痛いんですね、やっぱムカッとするようなことも言われたりすりゃ腹も立つです、けれどもその事を通して、信心の稽古をさして頂こうとする姿勢をです、私共がいよいよ本当なものにしていかなければならない、そして信心の稽古の楽しさね、喜ばしさというものが、日々をいっぱいにしていくおかげを頂いていかなければならんと思うのでございます。
   どうぞ。